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呼吸による癒し から

ギャンブルがしたいという要求が心の隅から現れると、五蘊のひとつとしての「心」が明確に感じられる。ふつふつと泡のように湧き上がる欲求、拘りを見つめてみる。
それは喉の奥、胃の入り口の少し上、膨らんだ小さな風船のように感じられ、胃の上部を軽く圧迫する。

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"感受を自覚していないと、私たちは感受に追い立てられ、小突き回されます。毎日は錯乱した様相を呈し、感受を本当に意識することなく自動的に反応してしまいます。そこでなすべき修行はただ感受を意識し、感受を完全かつ充分に経験することです。賢明な注意とブッダが言ったのはそのことです。賢明な注意を払うことによって物事にどう対応するかの自由が得られます。どんな小さなことにも面食らってしまうということがなくなります。自分にも取り組むことができるということがわかっています。いくらか平静な心を養うことができます。
P110"

— 呼吸による癒し

"常に暖かく充実した経験でなければならないという考えにはまり込んでしまうのは、人生においてだけでなく修行においてもしばしば起こります。いつも喜悦や幸福を経験していて、顔は暖かに輝き、スピリチュアルで充実しているように見えるべきだ。そうなりたいと思うのは自然なことですが、それもまた罠となりす。人々は自分が実際に経験している感受を否認しながら、外面を取り繕って歩き回っているのです。
もしもあなたが絶望的なまでに不幸であるならば、内側を麻痺させて幸せそうに顔を輝かせているよりも、その不幸としっかり共にあることの方が大切です。その方がより真実に近い修行にもなります。気づきがあなたをいつも幸せにしてくれるなどということはありません。誰も望まないこととはいえ、あなたがひどい恐怖を経験しているとき、そこには本当にそれと共にあることのはっきりとした充実感があります。それは正確にいうと達成感ではありません。それはたった今あなたが自分の人生をありのままに生きているということです。
これが心のプロセスを鎮めるということの意味です。感受が現れます。恐怖のような強烈なものであっても、意識的な呼吸を使いながらそれと共に存在します。それと共にとどまります。あるがままにします。意識的な呼吸と気づきがその感受から力を抜き取ってしまいますから、心がヒステリックになってしまうことはありません。感受は、私たちをそのような無思慮な状態に追い込んで行く可能性を失います。
最終的にブッダが感受に関して言ったのはそのことです。「悟ったものは感受の生起と消滅をありのままに見る。それらを味わうこと、それらが生み出す危険、それからの解放をありのままに見ることによって、すべての執着から解放されて自由になっている」
P107"

— 呼吸による癒し

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すべてのものが感受から始まります。人々が陥りがちな困難な心の状態もすべて感受から始まります。その原初の感覚のより近くに行けば行くほど、より明瞭に見つめることができます。▲小さなことから始めなさい。蚊に刺されたことから自分を解き放ち、どんな風になり得るかみてみようではありませんか。

P92

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— 呼吸による癒し

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感受のより大きな世界2

▲その最初の瞬間、明瞭だった感受の直後を執着、嫌悪、あるいは退屈が追いかけてきます。第六感である心から出てくる思考にも、快、不快、中性と言った味わいがあります。身体に気をつけていたときと同じ方法で、心を見つめる助けとして呼吸を使うことができます。それから思考に関していうと、もしも私たちが思考を見守っていないと、本当に手に負えなくなって行きます。驚愕、深い悲しみ、欲情、激怒、深い渇望と言ったあらゆる類の心理的状態に発達して、しばしばそこから生み出される破壊的な行動につながりかねません。
▲仏教が物事を見つめる体系の中では、感受が世界を展開させていきます。私たちは生涯のすべてを費やして良い感受を収集して悪いものを避けようとしています。中性の感受にあたっては思考や空想に耽ってぼんやりしてしまいがちです。
▲問題なのは、私たちがこのプロセスの奴隷となってしまうことです。私たちはいろいろな反応を引き起こすこの感受を詳しく見つめようとしません。感受はムードとなり、感情となり、自分という感じに発展して行きときにそこから良くない行動がもたらされます。
▲ブッダは感受を、この連鎖における切れやすい連結点であると見ていました。もしも私たちが感受をその根元において捕まえて、巧みに感受を見つめる事ができたならば、私たちは不必要な苦しみから自分自身を解放することができます。あらゆる人間の惨めさにつながっていくプロセスを回避することができるのです。

P88"

— 呼吸による癒し

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感受のより大きな世界

▲感受すなわちヴェーダナーは仏教の教義・修行体系の中で非常に重要なものです。あるとき、ブッダはすべてのものが感受の上で合流すると言ったことがありました。ブッダは感受という言葉を感情という意味合いでは使っていません。仏教体系の中では感情はあとから出てくるものです。この相違を理解することは、実際の修行の上で大きな意味を持ちます。感受という述語は、感覚と呼ばれることがありますが、心を含めた感覚器官のドアを通って入ってくるものすべてを指します。
▲(音や臭いなど)こうした感覚対象のどれひとつを取ってみても、そこには快、不快、あるいは中性のいずれかにあたる、直接的かつ自発的な感受があります。通気口から流れてくる野菜カレーの香りや朝の作業に勤しんでいるモッキンバードの鳴き声は快です。コンクリートミキサーが唸り声を立てながら通り過ぎるのは不快。夏の日を終日鳴き続ける虫の音は中性です。問題となるのは、感受は実際に一日中一瞬一瞬生起しているのに、私たちは必ずしもこれらの感受を意識するとは限らないということです。
▲感情は、この感受に気をつけていないために起こってきます。

P87"

— 呼吸による癒し

"私たちはただ心を静めて集中しているだけではありません。対象が静寂さそのものであったとしても、その対象の本質を見つめています。何か実態のないものに核となる本質を想定してしまっていること、それにしがみつくことができると思い込んでしまっていること、それが自分に属するものであると決めつけてしまっていることを私たちは理解します。さらに注意深く見つめていくなら、こうした思い込みがすべて幻想であることを理解します。私たちはこれらの無常の状態が行ったり来たりするままに任せなければなりません。P81"

— 呼吸による癒し

"ここでの試練は何かというと、私たちが喜悦や至福を十分に経験して、それらが終息した時、はたして手放すことができるかということです。私たちは自然の法則が働くに任せることができるでしょうか?私たちが任せようと任せまいと、いずれにしても自然の法則というのは働いて行きます。しかし呼吸に自らを委ねたのと同じようにそれに委ねることができるでしょうか?P81"

— 呼吸による癒し

"ブッダの教えのすべては、ひとつにまとめることができると言われています。「どのような状況の下でも、何物に対しても、”私”とか”私のもの”として執着してはならない」。それは喜悦とか至福を経験すべきでないということではなく、それらに執着することのないよう注意しなければならないということです。執着してしまったときには、気づきをもってその事実を見つめなければなりません。そのように見ることが私たちを守ってくれるのです。P80"

— 呼吸による癒し